——存在ではなく、存在の仕方(成立と作動)のリアリティ
ロックとはなにか。いまだこのような問いがしばしばなされることがある。音楽性だけでは捉えがたく、体制や反体制、商業や反商業主義といった社会的な価値づけによる定義も状況により変化する。あるいは否定形で語られることもある。すなわち「~でないもの」、または逆に「なんでもありうるもの」といわれることだ。ここでは、そのような本質をめぐる問いの答えが、存在論的欲望(「本物はどれか/正体は何か」を確定したい欲望)から、存在の仕方という作動の方式へとズレていく過程を検討したい。
ロックにおいて、主体と作品は原理的に確定しにくい。複製技術を前提とする以上、語りの主体は「この人が語っている」という単一の中心へ回収されず、録音・編集・反復再生・共同制作・メディア像といった複数の回路の交点として事後的に立ち上がる。作品もまた、譜面のように同一性が保証される対象というより、テイク選択、ミックス、リミックス/リマスター、ライブでの改変、カバーや引用によって境界が更新され続ける成立条件の束として現れる。
にもかかわらずロックは、ほかのポップスなど複製音楽一般よりも「本物性」を価値の核に据えやすく、正統性の争いを内在化する。ゆえに「確定しない」という条件そのものが、「本物はどれか」「誰が語っているのか」という確定の欲望を反復的に喚起する。この欲望と構造的不確定の往還が、存在論的問いの決着をつねに遅延させる。すなわち「ロックとは何か」「この曲の本当の意味は何か」「この人の本心は何か」と問うほど、問いは対象の正体ではなく、成立の過程、媒介の操作、反復のなかで生じる経験の変形へと押し戻される。ロックのリアリティは、同一性の確定ではなく、作動の連鎖と強度の配分に宿る。
ここで代表的な反論を三つ提示する。第一に、ロックは「本物」「リアル」「魂」といった語彙で語られ、スターの人格やオーセンティシティをめぐる争いが絶えない。第二に、録音物は物理的・デジタル的に固定されている以上、作品は確定している。第三に、ライブや共同性が重視されるほど、主体はカリスマとして実体化する。しかしこれらは本稿の議論を否定するというより、確定不能性が回収の欲望を生み、その欲望がズラされつつ反復される構図を裏づけるものである。人格を実体化しても、編集や再生環境や場の差異がそれを攪乱し、作品を固定しても、別テイクや別ミックスや聴取条件が同一性を揺るがす。「本物」をめぐる存在論は成立するが、同時にロックによって破られ続ける。
録音物が固定対象であるという主張も、固定されているのはデータであって作品の同一性ではない点で限界をもつ。録音とは出来事の保存であると同時に、切断と選別、強度の調整によって出来事を別の現実として再構成する操作である。さらに反復再生は、環境・身体・共同性の条件差を介して、同一の音源を別様に作動させる。ロックにおける作品とは、固定物というより、反復のたびに成立し直す条件体系である。
したがって「ロックとは何か」という問いは、つねに宙吊りにされる。だがそれは問いが無意味だからではない。主体と作品の確定不能性が「本物」や「正体」を求める欲望を喚起し、その欲望が媒介によって攪乱され、決着しないまま反復される。その往還とズレこそが、今日においてなお有効たりうるロックの批評性である。ロックは「何であるか」を確定させるのではなく、「どのように成立し、どのように作動しているか」へと問いを押し戻し続ける。そこで問題になるのは本物やアイデンティティの固定ではなく、それらが成立し、揺らぎ、更新され続ける様態そのもの——すなわち、存在ではなく存在の仕方である。