RNT本執筆に向けて勉強している。水牛楽団とウータン・クランを並べようとするむちゃくちゃに間違ったことを、なぜおれはしたいのか。といってもたんに面白がりや、好んで奇妙なことをやりたいわけではない。おれなりの必然性がある。それがなんなのかはまだわからないので考えている。
RZAのウータンマニュアルを電子書籍で買って自動翻訳で読む。ファイブパーセントネーションについても確認する。オーネット・コールマンの楽理やサン・ラーの教義もそうだが、アメリカ黒人音楽家の理論はたいてい変テコに見える。論理では追いづらく、神秘主義的で部外者にはついていけない。しかし理論とは変テコだからこそ意義がある。そう気づいた。それは限定的であるということだ。変テコとは普遍性に挑戦する態度だ。
たとえばカントは人間の理性はどこまで妥当するか、われわれは世界をいかに経験し得るか、という理論を組み立てた。こういうのがちゃんとしているように見える。しかし虚心坦懐、なるべく曇りなき眼で向き合うなら、理性の限定そのものを対象とする十分に変テコな理論である。岩波文庫の体裁や大学の講義といった場所で触れるから、変テコさが可視化されにくい。
カントは世界の大部分はほぼわからないしそれでOKという。それより前のスピノザはまあほぼ初見で変テコだが、なんでも神様で、その一元化の徹底が倫理にも政治にも侵入してくる奇妙な宇宙論。ヘーゲルに至っては完全に気が狂っている。世界史を一つの意識が展開する物語として読むという個人的で壮大な妄想体系を、おれはまだ読めていない。
ただ、連中はキリスト教圏の白人で、普遍という立場から語れる権力的な位置にいたに過ぎない。そもそも普遍という制度と圧倒的な軍事力に守られていた。まあ実際には異端とかで相当いじめられたりするやつらもいるのだが。ファイブパーセントなどが奇妙に見えるのは、支配者側の普遍性を前提としているからだ。帝国と教会と大学から排除された、真に持たざる者は自分たちで理論と体系を組み立てずには生きていけない。
無論ファイブパーセントネーションを批判することもできる。チンピラどもを更生するストリートの教育機関としてミクロなレベルで政治的実践を行っているともいえるが、母体であるブラックムスリム運動、ネーションオブイスラムの闘争的な戦闘性は後退した。日本でいう、ていねいな暮らし、のように、結局のところ資本主義に適合的な生き方指南や、売れるヒップホップ商品製造メソッドに堕しかねない難点がある。しかし批判ができるというのは、限定的ではあっても共有が可能ということだ。批判されることで理論は独りよがりではなくなる。
このあたりのミクロな政治性が実際どのように行われているのか、その肌感覚は本を読んだだけではわからない。それが課題だ。また、ウータンの神秘主義的傾向は今年見たヒルマ・アフ・クリントたちの5人会や、最近勉強しているドイツのロマン主義なども想起する。神秘主義的な小グループによる宇宙論の自作という感じだ。ただまあそれは最近見たり読んだりしているのだから想起するのが当然な気もするが。
とにかく理論は限定的だからこそ意味がある。むしろ限定を作るものが理論である。切断線を引いて、また何度も引き直す。それが理論の構築だ。これを今日の勉強から得たものとしておく。たぶんおれは無茶で多様な理論の乱立に与したい。
2025-12-08